精神症状を「心」から分断する
精神科や心療内科を通院しようと思う時、主に以下のような困り感で通院することが多いでしょう。抑うつ気分、対人不安、怒り、無気力、人からの評価への不安などといった症状や、不眠、食欲不振、人との関わりを避ける、公共交通機関の利用をつい避けてしまう、意味がないと思うのに手を洗ってしまう、過剰に食べてしまう、食べたら吐いてしまうといった身体的、行動的な問題など。現代では、それぞれに対して、それらを緩和する効果的な薬が開発され、効率よく治療することができるようになっています。抗うつ薬、抗不安薬、睡眠導入剤、躁状態を防ぐための精神安定薬、ADHDの治療のための精神刺激薬など、様々な症状に対応した薬物があります。服用すると、脳内の特定の神経伝達物質を増加あるいは減少するといったはたらきをします。
ただこれらの治療は、ある意味で反応に焦点化した治療であり、実際には心の病の問題を「心の体験」から切り離した考えに基づいていると言えます。例えば、抗うつ薬の作用でも知られる、「セロトニン」という神経伝達物質が一時期ニュースやバラエティー番組で取り上げられ、「太陽の光を浴びてセロトニンの脳内の分泌を促す」といった健康法などが広まりました。このように、心の体験を、脳の分泌物でコントロールしようとする考えは本質的にはその方の抱えている心の病について解決策を提示しているとは言い難い状況になります。実際に、薬物療法を続けていると、症状は緩和しているために日常生活は送れるものの、主観的に「生き生き」としていない日々になっていることも珍しくありません。このような治療観について、片岡(2023)は「効率化のイデオロギー」という言葉を使って考えを述べています。コストダウンやタイムパフォーマンスといった商業的な価値観が健康維持にも求められるようになっているのです。実際、医学は侵襲性やリスクをできる限り最小限にした効率的な治療を開発してきました。精神医学に関してもその例に洩れません。
逆に言えば、症状がなければ、どれだけ主観的に苦しんでいても、薬を服用することはありません。しかし、症状の有無だけが心の病と健康の差だとは思えません。心の病を考える上では、一人一人が感じる主観的な世界がどのように色づいているのか、どのような歴史を経て今に至るのか、といった「個別性」が抜け落ちてはならないと思います。片岡の批判する「心の<修理>化」の流れに陥ることは、自分自身の1つの主観的な世界が色あせてしまうことになります。薬物療法「だけ」を治療として考える単眼的な考えではなく、自分の心の体験を中心軸において治療を考えることも、結果的に現状を変えるもっとも「効率的」な道なのかもしれません。
引用文献
片岡一竹(2023) ゼロから始めるジャック・ラカン